〜こども達の心に残る遊びの環境を考える〜

私が幼かった頃、こどもの遊べる範囲が広かった。空き地であったり、公園であったり、放課後の学校であったり、自転車に乗れる様になると隣町まで友達と額に汗を流しながらペダルを踏んだのを覚えている。塾や習い事をしているこどもはまだ小数派でこども達は自由に過ごす時間が沢山あった。それでもあっと言う間に時間は過ぎて、夕日に背中を押されながら、暗くならないうちに急いで帰宅する。そんな毎日の中で育っていった。

何気ない毎日の中の自由な時間。遊ぶ時間を通していろんな事を感じ学んだ。

芝生に寝転がり流れる雲を眺めたり、虫を捕まえたり、全速力でいつまでも走れる場所があり、仲間達の背中を追い続ける大冒険の幼少期だった。

こども達は今も昔も変わらない。遊び心に溢れていて、彼らの心と瞳は澄んでいる。園庭で泥山の頂上に立ち笑うこども達の笑顔は、昔一緒に遊んだ仲間達の笑顔を思いださせる。

こども達の遊びに大きな変化を感じる。それはこども達の遊ぶ範囲が狭くなってきている事だ。 時代遅れの考え方かもしれないが、少し前までは自宅で楽しむテレビにコンピューターにこども達は没頭した。しかし今はどこにでも持ち歩ける携帯電話がこども達の『遊び』の一つになりつつある事に違和感を感じる。こども達が椅子に座り、一人でも遊べる。大人はその光景を『便利』と言い、こども達もそれを『楽しい』と言う。こども達の世界はデジタルの世界で広がり、実際にこども達が触れたり、感じたり、体を使って遊ぶ範囲と人と関わる幅が狭くなってきている事が寂しい。

時代や環境が変わればその中で生きていくこども達の育ち方も変わってくる。保護者と自らの幼少期の想い出話を話す機会はあるが、多くの人は『裏山で遊んだ..楽しかった』と彼らの想い出とその時感じた情熱を今でも明確に振り返る事ができる。一瞬の出来事だったのかもしれないが、幼少期に感じた感情は大人になっても覚えている。それほどまでに幼少期に感受性は高く、こども達の心にとって衝撃的なのだ。私達の目の前にいる大切なこども達に素晴らしい体験、感動を沢山感じて欲しい。その体験は彼らの生きる土台ともなる大切な学びなのだ。彼らが幼児期にそれらの事が体験ができる環境を守り整え、こども達に与える事ができる様にこれからも勤めていきたいと思う。